[ #40 ] 2009.12.08. Tue 12:28
12月6日(日)
今回は、午前と午後に1軒ずつだったので当日参加した調査員14名が全員で訪問しました。
(1)上宗岡の荻島さん宅訪問記
御当主夫妻と87歳の御母堂様により案内して頂きました。
5代前の約200年前に建てられた水塚は「文庫倉(ぶんこぐら)」と呼ばれていました。
(写真:竹中寛彰、以下同)
2間×3間の大きさで、1階と2階に付けられた漆喰窓と板壁が特徴の凝ったつくりの水塚です。
土盛りの土は、近くの「佃(つくだ)」という場所から運んだと伝えられているそうです。
倉の内側も全体が板壁で覆われ、なるほど「文庫倉」というだけあって、厳格な温度・湿度管理ができる構造なのかと感心しました。
この他に以前は「米倉」と「味噌倉」の2棟の倉もあったそうです。

こんなに大勢で押しかけました。
昭和16年の水害時には、おばあちゃんが、片づける必要のない茶碗鉢を必死になって片づけていたと、当時の狼狽ぶりを紹介していただき、また、昭和22年のカスリーン台風のときは水塚に避難したが、水は出なかったとのことでした。
(2)中宗岡の市之瀬さん宅訪問記
「下(しも)の倉」と「上(うえ)の倉」の2棟の水塚が現存し、かつてはこの二つの倉の間に「味噌倉」があったそうです。

上の写真は「下の倉」です。
明治43年の記録的な大水害時には倉の黒い腰壁との境の少し下まで水が来たそうです。
かつては下の倉には穀物や味噌、醤油、梅干しなどが入れてあり、上の倉は母屋に続く「倉の前」という部屋から出入りし、箪笥・長持ちなどの貴重品が納めてありました。
江戸時代、御当主が川越城を訪ねたおり、帰りに乗って帰った「御駕籠」も収納されていたそうです。

明治43年の水害時に水が棚のところまで来て、当時の「ヘドロ」が残っていたという母屋の神棚。
ちなみにこの神棚は、明治30年頃、近くの産財氷川神社改修の際、当家に宿泊していた棟梁がお礼にと造ったものだそうです。
「埃だらけで、とても倉の中は見せられない」と、おっしゃっていた御当主ですが、「下の倉」だけでなく、母屋の神棚や「倉の前」、「上の倉」の中まで見学させていただきました。本当にありがとうございました。[毛利]
今回は、午前と午後に1軒ずつだったので当日参加した調査員14名が全員で訪問しました。
(1)上宗岡の荻島さん宅訪問記
御当主夫妻と87歳の御母堂様により案内して頂きました。
5代前の約200年前に建てられた水塚は「文庫倉(ぶんこぐら)」と呼ばれていました。

2間×3間の大きさで、1階と2階に付けられた漆喰窓と板壁が特徴の凝ったつくりの水塚です。
土盛りの土は、近くの「佃(つくだ)」という場所から運んだと伝えられているそうです。
倉の内側も全体が板壁で覆われ、なるほど「文庫倉」というだけあって、厳格な温度・湿度管理ができる構造なのかと感心しました。
この他に以前は「米倉」と「味噌倉」の2棟の倉もあったそうです。

こんなに大勢で押しかけました。
昭和16年の水害時には、おばあちゃんが、片づける必要のない茶碗鉢を必死になって片づけていたと、当時の狼狽ぶりを紹介していただき、また、昭和22年のカスリーン台風のときは水塚に避難したが、水は出なかったとのことでした。
(2)中宗岡の市之瀬さん宅訪問記
「下(しも)の倉」と「上(うえ)の倉」の2棟の水塚が現存し、かつてはこの二つの倉の間に「味噌倉」があったそうです。

上の写真は「下の倉」です。
明治43年の記録的な大水害時には倉の黒い腰壁との境の少し下まで水が来たそうです。
かつては下の倉には穀物や味噌、醤油、梅干しなどが入れてあり、上の倉は母屋に続く「倉の前」という部屋から出入りし、箪笥・長持ちなどの貴重品が納めてありました。
江戸時代、御当主が川越城を訪ねたおり、帰りに乗って帰った「御駕籠」も収納されていたそうです。

明治43年の水害時に水が棚のところまで来て、当時の「ヘドロ」が残っていたという母屋の神棚。
ちなみにこの神棚は、明治30年頃、近くの産財氷川神社改修の際、当家に宿泊していた棟梁がお礼にと造ったものだそうです。
「埃だらけで、とても倉の中は見せられない」と、おっしゃっていた御当主ですが、「下の倉」だけでなく、母屋の神棚や「倉の前」、「上の倉」の中まで見学させていただきました。本当にありがとうございました。[毛利]
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