[ #72 ] 2010.06.29. Tue 23:22
6月29日(火)
朝霞市・内間木と田島の水塚を下見しました。
平日でも動ける、朝霞在住のT氏と、バスを乗り継ぎながら歩きました。

上内間木の旧家です。
朝霞の旧家は、南畑(富士見市)や宗岡(志木市)と違って、宅地全体が水田面より1.5mから2mほど高く土盛りしてありました。
江戸時代にはこのあたりの荒川、新河岸川には堤防が築かれていなかったので、このような形態になったものと思われます。
ちなみに、この旧家は、当主の言葉を借りると「殿様だよ」というほどの権力者だったらしいです。
大正から昭和初期にかけて荒川をまっすぐにする大改修がありましたが、当初の計画では荒川がこの屋敷を通り内間木を二分する計画だったようです。
そのことを示す石の基標が、掘り出され裏庭に置いてありました。
村が二分されることを憂えた今から4代前の御当主が政府に働きかけ、現在のように、内間木で大きく浦和の方にカーブする河道になったということです。
どうも、内間木の旧家は、土盛りの広さといい、権力といい、スケールが大きいようです。
[ウキゴリくん]
朝霞市・内間木と田島の水塚を下見しました。
平日でも動ける、朝霞在住のT氏と、バスを乗り継ぎながら歩きました。

上内間木の旧家です。
朝霞の旧家は、南畑(富士見市)や宗岡(志木市)と違って、宅地全体が水田面より1.5mから2mほど高く土盛りしてありました。
江戸時代にはこのあたりの荒川、新河岸川には堤防が築かれていなかったので、このような形態になったものと思われます。
ちなみに、この旧家は、当主の言葉を借りると「殿様だよ」というほどの権力者だったらしいです。
大正から昭和初期にかけて荒川をまっすぐにする大改修がありましたが、当初の計画では荒川がこの屋敷を通り内間木を二分する計画だったようです。
そのことを示す石の基標が、掘り出され裏庭に置いてありました。
村が二分されることを憂えた今から4代前の御当主が政府に働きかけ、現在のように、内間木で大きく浦和の方にカーブする河道になったということです。
どうも、内間木の旧家は、土盛りの広さといい、権力といい、スケールが大きいようです。
[ウキゴリくん]