活動報告など日々のニュースを綴ります。ご自由にコメントをお寄せください

日々河童のつづら

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
12月14日は、1月のしぶんぎ座流星群、8月のペルセウス座流星群と並んで、三大流星群に数えられているふたご座流星群が見られたそうですが、皆さんは見ましたか?

実は、昨夜7時頃、私は西の空に直進して消滅する、花火の燃えかすのようなけっこう大きな火の玉を目撃しました。
あれは何だったのでしょうか。
ふたご座流星群のひとつ? それとも航空機のバックファイヤー? はたまた…

だれか同じ頃目撃された方はいるでしょうか。[ウキゴリ]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
12月13日(日)
今回は、水塚所有者の方の都合で急遽設定しました。
9名の調査員が2班に分かれて、2軒のお宅を訪問しました。そのうちの1軒をご紹介します。

中宗岡の大橋家訪問記

明治期に建てられた2基の水塚がある大橋家は、田園風景の中にありました。
水塚遠景

右が母屋で、左の土盛りの上の建物が、今でも1斗の味噌瓶が3本入っているという水塚です。

話をうかがっていて分かったのですが、80歳になるご当主は、今年2月、荒川堤外の水田で作業中に火事に遭い、身を挺して消化し大やけどを負った身で車を運転して自宅まで帰り、その後意識不明の重体となり11月に退院したばかりだとのこと。
その剛胆さと快復力に驚くとともに、怪我をおして会見して頂いたことと、またそれを許して頂いたご子息にただただ感謝の念でいっぱいになりました。

水跡
明治43年の大水害時の水跡が残る、水塚の土壁。
水田面と宅地までの高さが約1m、宅地から土盛りの高さが2m弱、さらに土盛りから土壁の水跡までの高さが約1.7mほどありました。
以前は、この水塚の土盛りの周りをカシノキや杉、ケヤキの大木、竹などが被っていたそうです。

地下28間(約50m)から汲み上げた、近所でもおいしいと評判の水で沸かしたお茶をいただきながらお話をうかがいました。ありがとうございました。[毛利]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
12月7日(月)
埋蔵文化財整理室を見学しました
(志木のまち案内人の会主催)

学芸員

志木第四小学校にある埋蔵文化財整理室の見学会に参加しました。
まず、土器の破片を計測したりもくもくとつなぎ合わせる作業をする10名あまりの人たちがいる部屋に入りました。
多数のかけらから丸い土器を復元する作業。「1日中やって一つもつながるかけらを見つけられないときもあります」と、非常に根気のいる作業です。

続いて、土器などが所狭しと収納された整理室に入りました。学芸員の尾形さんの案内により、3万年前の旧石器時代から中世のものまで、志木市から出土した土器など埋蔵文化財を見学。
モノの形や作り方から当時の社会の様子や流通経路などをさぐることにとてもロマンとおもしろさを感じます。

銀印
城山遺跡の住居跡から出土した「冨」の文字が刻まれた銅印。
一緒に木簡を削る刀子(とうす)も出土しており、このあたりに当時の役所が置かれていたことが推測できるそうです。文字がある資料からは、当時の息づかいが一層迫力をもって伝わってきます。

それにしても感心するのは、現在使っている器の原型がもう1000年以上前にできあがっているということです。[毛利]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
12月6日(日)
今回は、午前と午後に1軒ずつだったので当日参加した調査員14名が全員で訪問しました。

(1)上宗岡の荻島さん宅訪問記

御当主夫妻と87歳の御母堂様により案内して頂きました。
5代前の約200年前に建てられた水塚は「文庫倉(ぶんこぐら)」と呼ばれていました。
ogisima(写真:竹中寛彰、以下同)

2間×3間の大きさで、1階と2階に付けられた漆喰窓と板壁が特徴の凝ったつくりの水塚です。
土盛りの土は、近くの「佃(つくだ)」という場所から運んだと伝えられているそうです。
倉の内側も全体が板壁で覆われ、なるほど「文庫倉」というだけあって、厳格な温度・湿度管理ができる構造なのかと感心しました。
この他に以前は「米倉」と「味噌倉」の2棟の倉もあったそうです。

ogisima-1
こんなに大勢で押しかけました。
昭和16年の水害時には、おばあちゃんが、片づける必要のない茶碗鉢を必死になって片づけていたと、当時の狼狽ぶりを紹介していただき、また、昭和22年のカスリーン台風のときは水塚に避難したが、水は出なかったとのことでした。


(2)中宗岡の市之瀬さん宅訪問記

「下(しも)の倉」と「上(うえ)の倉」の2棟の水塚が現存し、かつてはこの二つの倉の間に「味噌倉」があったそうです。

sita
上の写真は「下の倉」です。
明治43年の記録的な大水害時には倉の黒い腰壁との境の少し下まで水が来たそうです。
かつては下の倉には穀物や味噌、醤油、梅干しなどが入れてあり、上の倉は母屋に続く「倉の前」という部屋から出入りし、箪笥・長持ちなどの貴重品が納めてありました。
江戸時代、御当主が川越城を訪ねたおり、帰りに乗って帰った「御駕籠」も収納されていたそうです。

kamidana
明治43年の水害時に水が棚のところまで来て、当時の「ヘドロ」が残っていたという母屋の神棚。
ちなみにこの神棚は、明治30年頃、近くの産財氷川神社改修の際、当家に宿泊していた棟梁がお礼にと造ったものだそうです。
「埃だらけで、とても倉の中は見せられない」と、おっしゃっていた御当主ですが、「下の倉」だけでなく、母屋の神棚や「倉の前」、「上の倉」の中まで見学させていただきました。本当にありがとうございました。[毛利]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
11月26日(木)
またまた水塚が解体されていました。

水塚

以前から荒れ果て、放置されていた水塚でしたがとうとういつの間にか蔵は解体され、今日は土台が崩されていました。
このお宅は、国道254号バイパスの予定地内で、いずれ解体される運命ではありましたが… [毛利]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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 @埼玉県志木市
水にかかわる自然や文化が大好物です。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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